たとえばコメントのようなもの

ニコニコ動画を見るようになってもう10年くらい経つんですが、10年前はというと実況動画が流行り始めたような頃で、今でも実況動画を見る以外のことはあまりしていません。

そして実況動画を見ていると、どうにも引っかかるコメントというものが出てきます。

 

たとえばネタバレコメ。ストーリーのあるゲームで、「もしかして◯◯なんじゃね?」みたいな、物語の先を推測・考察するようなコメント(意図してネタバレしている場合が多い)。

たとえば指示コメ。「◯◯しろよ」みたいな、プレイヤーに指示をするコメント。

たとえばつぶやきコメ。「◯◯なんだけどね」みたいな、自己完結型の上から目線のコメント(ネタバレ・指示の変形)。

 

こういうのが嫌だからやめてくれ、という話ではなくて、こういうコメントはなぜか同じような再生時間に一斉に流れてくるのが不思議だなぁという話。

みんながみんな投稿直後に見ているのでなければ、必ず最初に同じ内容のコメントをした人がいるはずで、そのコメントが流れてくるわけで、それを見たうえでなお上述のようなコメントをするっていうのはどういう精神状態なんでしょうか。

道を歩いているとAさんがBさんを殴っていたから、全然知らない人だけど通りざまに自分も殴っていくか、みたいなことをしているように見えるのです。

 

いや、どうでもいいんですけどね。

たとえば心のようなもの

髪を切って、髪色を変えて、新しい服と鞄を買って、新しい靴も欲しいなーなんて考えて。
いつからかそんな、かつてどうでもよかったと、納得どころか理解も行かなかったようなことに、楽しさや喜びを感じるようになっている自分に気付いた時、果たしてこれは感情が敏感になったのか、あるいはかわりにどこか鈍感になってしまったのかなどと、詮無いことを考えてしまいます。

変わるというのはとても難しいことで、思うように行かないことのほうが多くて、手を伸ばしてみたり、捨ててみたり、辛い思いもして、それでもなかなか変われなくて、変わりたいと思っている自分だけが、いつまでも変わらずにいたりするもので。
そんな思いと裏腹に、ふとした瞬間に自分の変化に気付いて、自分のことだというのに、なんとも不自由だなぁなんて思うのです。

たとえば思いやりのようなもの

記事タイトル、縛りを設けているわけではないのですが、なんとなく揃えていたら厳しい感じがしてきました。さらっと全然違う体になっていても気にしないでくださいね。

「がんばれって、言う方も言われる方も、無責任なんだよな」
10年ほど前に見ていた、『舞-HiME』というアニメに出てきたセリフです(細かい言い回しは間違えているかもしれません)。
「がんばれ」、に限らず、責任の所在が不明瞭な、ともすればいい加減な言葉というものが世の中には溢れており、ことそれが善意から発せられるものだと、なんとも複雑な気持ちになります。
「がんばれ」とか、「無理するな」とか。「言われなくてもがんばってるよ!」とか、「無理したくてしてるわけじゃないんだよ!」とか、思ってしまうのです。言葉そのものが悪いわけではありません。「がんばれ」というのは応援の言葉だし、「無理するな」というのは労わりの言葉です。言われて悪い気持ちになるものではないはずなのです。それを素直に受け取れないのは、自分がそういう、捻くれた大人になってしまったからなのでしょうか。

がんばっているのです。無理をしなければならないのです。そんな言葉でプレッシャーを与えるよりも、温かく見守り、密やかに救いの手を差し伸べていただけないものでしょうか。

たとえば衝動のようなもの

衝動買いというものが、学生の頃はわかりませんでした。アルバイト経験に乏しく、お金がなかったというのも理由のひとつかもしれません。

今は社会人になって働いて、余裕があるとは言いがたいものの、決して苦しくはない生活を送っていて、そうなるとたまにしてしまうのです、衝動買い。

ストレスを発散する、というのとは少しニュアンスが違うんですが、自分の中で何かが行き詰まってしまったとき、それまで触れてこなかったもの、目を向けてこなかったものに手を伸ばしてしまう癖があるようで。新しい何かを強引にでも取り入れたくなってしまうのです。

 

そんな衝動買いの今回の獲物はこちら。

 今もこれを使って記事を書いています。

きっかけは、最近これの無線版が出たという記事を目にしたことでした。ただどうやらあまり評判は良くない?らしいというのと、家で使うぶんには有線でも困らないので、あえて古いほうに。HHKB の存在自体は以前から知っていたのですが。

最初パソコンに繋いで試しに文字を打ってみた時は、バックスペースがわからず、「HHKB バックスペース」で検索する始末。2番と3番のスイッチを入れ、C-hjkl の設定をし、やっととりあえず使えるようになりました(わかる人にはわかるでしょうか)。

無刻印モデルはタッチタイピングの練習になるという言をちらほら目にするのですが、もともとタイピングの練習をしたこともなく、ホームポジションなどもってのほかという自分にとって、果たして良い影響があるかは疑わしいです。

肝心の打鍵感は、自分のパソコンを持つようになってからずっと Mac のキーボードを使ってきた自分にはなかなか新鮮で、音も含めて気持ちよさがあるのはなんとなくわかります。コトコト、というか、パクパク、というか、そんな感じ。

とりあえず今年の目標のひとつに、タッチタイピングができるようになる、というものを追加しようと思います(余談ですが、他には英語を聞き取れるようになる、という目標も掲げています)。

 

この衝動が、良い方向にも向かってくれると良いのですが。

たとえば思い出のようなもの

特別お題「青春の一冊」 with P D MAGAZINE
http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/pdmagazine

 

青春の、というほど甘酸っぱい時分に読んだものではないんですが。

 

当時2年ほど付き合っていた恋人と別れ、少し経った時のこと、従兄弟の結婚式に招待され、地元に帰ることになりました。もちろん、「こっちは傷心なのにご結婚とは幸せなことじゃないですか」、などと捻くれた考えはなく、純粋にお祝いする気持ちでの帰省の途。ちょうどその少し前に買った一冊が、『from everywhere. / 坂本真綾』。

 

from everywhere. (星海社文庫)

from everywhere. (星海社文庫)

 

 

声優の坂本真綾が、5週間の休みを取ってヨーロッパを一人旅した時のエッセイです。

これがとても良い本で、自然と情景が浮かんでくるような文章が印象的な一冊。やはり普段言葉を使うお仕事をされているからでしょうか、言葉のひとつひとつがするすると染みこんでくるのです。傷心だったからというわけではありませんが、自分もどこか遠く、知らない場所に旅に出たくなってしまうのでした。

 

青春時代に読んだ本を挙げるとライトノベルばかりになってしまいそうだったので、青春の痛みと共に心に残っている一冊をご紹介しました。ちょうど今、坂本真綾の別のエッセイを読んでいるのですが、そちらもとても良いのでおすすめしておきますね。

 

満腹論

満腹論

 

 

 

たとえば刃物のようなもの

つよい言葉というか、こわい言葉というか、そういう物言いをする人が昔から数人身近にいて、それは皆さんもそうかと思うのですけれども。今『つよい』も『こわい』も漢字にすると『強い』と書けることに気付いてひとり勝手に合点がいきました。

そういう人って、そのまま攻撃的な言葉を使う人と、言外に、行間に攻撃的な印象を持たせる人とがいるなぁと思います。どちらがマシかと言うと、どちらも好ましくないのでマシとかないんですが。どんなに任務遂行能力があって、実績があっても、こういう数字にできない部分というのは心象の点で大きなウエイトを占めるもので、なかなかその人と朗らかにコミュニケーションを取ることができなくなってしまいます(個人の感想です)。一方で、多少周囲に世話を掛けながら生きているように見える人でも、言葉遣いや人あたりや、もっと言うと雰囲気みたいなものに棘がないと、とても好感を覚えたりもするものです(個人の感想です)。

言葉は人を傷付け、その傷はなかなか癒えづらいもので、そんな危険な刃物のようなものを振り回しては生きたくないなぁと、思うのであります。

たとえばラジオのようなもの

ラジオが好きで、思い返すともう15年くらい、何かしら聞きながら過ごしてきています。きっかけはあるアニメのタイアップの、声優さんがパーソナリティのいわゆるアニラジだったのですが、当時その時間帯(土曜日の深夜)にいろんな声優さんのラジオが集中して放送されており、ベッドの中でポケットラジオのアンテナを必死に調整しながら、それも含めてワクワクしながら夜を迎えていたのを覚えています。
今はパソコンやスマホ、あるいはポッドキャストなどで、高音質な番組が比較的自由に聞けたりもするのですが、あのラジオ特有のノイズと共に番組を聞くのも、趣があって良いものだなぁと最近思ったりもして。

ラジオのどこが好きかというと、テレビよりも、話し手のパーソナルな部分が見えるような気がするところです。テレビで歌ったりお芝居をしたりしている人が、テレビの外ではどんなことを考えているのか、どんなことを感じているのか、そういうのを聞けるのが、ラジオのいいところだなーと思います。もちろん、ラジオで喋っているすべてがその人の素だとは思わないけれど。

似た観点から、ブログを読むのも好きです。なかなか新しいブログを発掘するということは最近はなくなってしまったけれど、何年もずっと読んでるものもあったりします。あるいは、ふと思い立ったときにまとめて読んだり。

ラジオとブログで大きく違うなと思うのは、受け手が文脈を共有しているかどうか、というところでしょうか。個人的な感想ですが、ブログは(たとえ連載記事であっても)記事ごとに明確に分断されているような感じがします。一方でラジオは、番組が放送されていく中で起きた様々な出来事が、自然とリスナーの中では暗黙の前提となり、メールの内容や番組の感想にも影響を与えているような印象を覚えるのです。これはやはり、画面に映った文字を読むのと、人の話す声を聞くのとの違いでしょうか。比べるものではないのだけど、文字にしてみると改めてラジオが好きだなぁと思ってしまいます。

というわけで、このブログもできるだけ無機質にならないように、タイトルに fm という文字を入れてみました。昔から聞いているのは AM ラジオなんですけどね。